私たちが「天然秋田杉」を語ることができるのは、今から約1300年前(西暦733年)東北地方がまだエゾ地と呼ばれていたころからです。秋田地方が初めて歴史に登場するのもこの頃で、「天然秋田杉」は秋田の各地に原生のまま繁茂し、大森林をなしていました。しかし当時のエゾ(秋田)の人々は「天然秋田杉」を今のように活用する方法を知りませんでした。 ときは斎明天皇の四年(六五八年)、大和朝廷が東北を支配下に置こうと、越国守(こしのこくしゅ、今の富山県周辺)阿部比羅夫が現在の秋田市と能代市にエゾ討伐に来ました。この討伐でエゾは一時無条件降伏しました。これにより大和朝廷はいっきに北方のエゾ地開拓を進めようとしましたが、 その後何度かエゾの抵抗にあい血みどろの戦いを繰り広げました。こうした争いの中で、大和の軍勢は至るところに生い茂った「天然秋田杉」を棚や築城に利用しました。 こうして「天然秋田杉」は古くから人間とつながりを持つようになってきました。


弘治二年(西暦1556年)時の藩主、秋田近季が清水治郎兵衛政吉を材木方に任命、建材などに杉木を切出し、利用したという伐採記録が残っています。この頃になり、山肌を埋めた緑の天然資源を活用しようという考えや藩主が藩士たちの間で議論されました。それ以前では森林の保護には無関心だったらしく特別の施策を講じた記録も見当たりません。



文禄二年(1594年)、秋田藩にとって容易ならぬ事態が持ち込まれました。全国を統一した豊臣秀吉が伏見城を築くため全国に密偵をとばし、建材用の良材を調査した折、「天然秋田杉」に白羽の矢が立てられました。秀吉は直ちに時の領主、秋田城之助実季に用材献上方を命じました。秋田城之助実季は早速領内を調査し、米代川上流地方の随一の美林を誇っていた長木沢(大館市)から伐採するように命じました。切出した杉の大木は米代川を筏で能代まで流し、能代港から大船で大坂に積出されました。当時の伐採量はわずかなものでも、「天然秋田杉」は無限の広がりを見せていました。藩主、秋田城之助実季も本腰を入れてこの無限の山林資源に取り組もうとしていました。



ところが慶長五年(西暦1600年)関が原の戦の後、政権が豊臣から徳川へと移りました。徳川政権では諸大名の整理が断行され、藩主、秋田城之助実季は常陸の宍戸に左遷させられました。代わりに常陸の大大名といわれた佐竹義宣が徳川方に協力しなかったという理由で秋田への国替えを命ぜられました。この実季・義宣交代劇が秋田の藩政確立とともに「天然秋田杉」の生涯をも大きく変える、まさに「天然秋田杉」の夜明けともいうべき時期を迎えることになります。

平安初期、エゾの攻撃にそなえて築かれた”払田の棚”跡から発見された”あきた杉”の棚木
天に向かって伸びる「天然秋田杉」の巨大な幹の年輪には秋田の歴史が刻まれています。
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
秋田杉の生い立ち