秋田県山本郡二ツ井町のJR二ツ井駅から北へ米代川に沿って約3km。麻生という地区があります。米代川の流れにぴったりとくっついて、杉の香りの中で静かに息づいています。入り口にかかる七座天神橋のたもとには天神貯木場がありました。
山出しされたばかりの杉の原木が山と積まれていました。杉の原木は村のあちこちで目にはいりました。「あきた杉」と二ツ井町と米代川は切っても切れない糸で結ばれていました。明治後半から大正時代は「あきた杉」の伐採、運搬も最盛期でした。羽根国有林から切り出される杉は天神貯木場中継で能代までいかだで流送されていました。天神貯木場から能代まで20数km。一日に30枚から40枚のいかだが能代に向かって流れました。米代川を下ってきた杉は能代貯水場に着きます。能代貯水場は檜山川と米代川の合流点にあり、木サクをめぐらした構内には藩政時代、能代木山方庁舎がありました。
秋田県二ツ井町にあった天神貯木場
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杉材はほとんど丸太のまま取引されました。国有林の「あきた杉」の払い下げは明治中頃まで秋田大林区署によって行われましたが、大部分は立木のまま「山師」と呼ばれる民間業者に売渡されました。彼らは「杣夫(そまふ)」、人夫を使って杉を伐採し、貯木場まで運んできて材木問屋に売渡していました。しかし、豪雨で川がはんらんすれば材木は海に流される。悪質な木びきや「山師」が契約を履行しないこともしばしばあり、問屋はその都度大損害を受けることもありました。このような木材産業の危険性を十分に知っている地元の業者はどうしても消極的になり新しい事業に手を出そうとしませんでした。
天神貯木場からの筏流し
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明治二十三年、東京深川の有力な材木問屋、久次米商店と土木会社・大倉組が共同出資で林産商会を設立、能代市に進出するまで、県内には近代的な製材工場はありませんでした。中央業界のたくましい商魂と、いわば“盲ヘビにおじず”的な勇敢さが地元業者の虚を突いた結果になりました。林産商会にはすぐれた企業手腕の持ち主がいました。能代支店長になった「井坂直幹」、当時三十一歳。1860年茨城県に生まれ、水戸国学を学びました。明治維新後、福沢諭吉の書生となり慶応義塾に学び、西洋文明と福沢諭吉の合理主義を十分身に付けました。

井坂は機械製材に目をつけました。しかし木材界に飛び込んだばかりの新参者には業界の実情も十分わからず、いきなり機械工場建設するのは無理でした。それに久次米商会東京本店が経営不振に陥り、材木問屋を閉鎖することになりました。それでも井坂は木材業界に強い魅力をいだき始めていたため本店閉鎖後も能代に残り、資金を集め能代材木合資会社を設立しました。
彼は藩政時代から残っていた“山師”による伐木運材をやめ木材払い下げと製材を直結させ“山師”と完全に手を切りました。さらに長年の望みであった機械製材工場を設立、イギリスから新式の製材機を購入しました。井坂の事業は軌道に乗り明治34年には秋田製材合資会社を設立。製品は飛ぶように売れ従来の北海道、北陸地方だけではなく関東、関西にまで販路を拡張、「あきた杉」製品の声価を高めました。明治41年にはこれらの会社を合同、秋田木材株式会社を発足しました。本県の「木材王国」としての地位を確立しました。まさに「木都能代」の生みの親といえるでしょう。
東洋一の規模を誇った秋田木材会社と井坂直幹

激しい業界の浮き沈み
このように長木沢(大館市)から能代港までの米代川流域は、「あきた杉」で栄えた町です。明治23年、井坂が林産商会能代支店長として赴任、木材業界の近代化に敏腕をふるい始めてからは、全国に「木都能代」として知られるようになりました。明治後半から大正初期にかけての景気は最高潮に達しました。その後はまるでネコの目のように変わる景気の動きに激しくゆれ動かされました。昭和9年の戦後不況が始まったと思うと関東大震災の復興工事で景気回復となるなど太平洋戦争後あたりまではめまぐるしく景気がゆれ動きました。このように「杉材産地秋田を支えてきた製材工場が多い米代川流域」の盛衰は激しく今業界は体質改善に全力をあげて戦っています。
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
山から工場へ