植林意欲高の高まり  
天明五年(一七八五年)秋田藩八代目藩主義敦が江戸で没し、当時わずか十一歳の義和があとをつぎました。藩の財政は火の車、「天然秋田杉」も産出量がジリ貧、正徳、宝暦の林政改革にもかかわらず、藩内の山は荒れる一方でした。義和は「今杉の苗を植えても茂木になるまでには少なくとも四、五十年後。急場の救いにはならぬ。しかし目先のことにのみとらわれていては、当藩百年の大計は成らぬ。余の代に役立たずともいつか”国の宝”となるときがくる」と山林荒廃の原因をさぐり植林のすすめと林政機構を整備しました。

はじめに山林に関する台帳(杉帳、林帳)、図面を詳細に整備しました。これによって領民が樹木を伐採しても一目りょう然にわかりようになりました。そしてこれまで杉などの収入は藩と農民で折半していましたが、藩三割、農民七割という大英断を下しました。これによって農民の植林意識は大いに盛り上がり数年後には早くも山々に杉の若木が青々と色づいてきました。こうして第三期林政改革である「文化の改革」で義和は「佐竹藩中興の名君」と呼ばれるようになったのです。
佐竹藩中興の名君とうたわれ文化の改革を行なった義和公

美林の基礎を築いた賀藤景林、二百五十万本を植林
文化の改革を陰で支えたのが「秋田杉の父」と呼ばれる林取立役 賀籐景林でした。景林は義和の意にそってよく働き、また改革案の中には景林のアイディアが多く採用されました。
これまでの林役人は、村落近くの山林だけしか見回らず、山奥には足を踏み入れませんでした。しかし彼は藩内の山々を見回り、植樹、森林保護に寝食を忘れ働き、巡視した体験に基づいて企画、立案を打ち出し、藩も彼をよく用いました。天保五年(一八三四年)六十六歳で没するまで、木山方として景林が植樹したものは実に二百五十万本に達したと伝えられています。景林の遺志は長男景琴が引き継ぎ賀藤景林父子二代にわたる努力が“秋田美林”の基礎を確立しました。そして彼らの後ろには名もなき多くの農民の努力があったことはいうまでもありません。
「秋田杉の父」賀籐景林
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
藩政時代3