裕福な常陸の国から貧しい未開の地秋田に左遷させらてきた佐竹義宣公でしたが、新天地秋田での領国建設について彼なりの抱負と野望がありました。まず徳川幕府との関係をよくし領代当統治を完璧にするため権力体制を安定させることに力を入れました。そして藩財政の立て直しを図るため、鉱山の活用と豊富な森林資源の開発に着手しました。その後、居城 久保田城を領地中央に築き、城下町としての町づくりを始めると同時に、豊富な「天然秋田杉」を伐採して海路、越中、その他の遠国に移出し、藩財政を潤しました。さらに森林資源の培養し、利用することを藩是として将来に備える決意を固めました。
秋田杉の開発に最初に乗出した秋田初代藩主佐竹義宣公

「国の宝は山なり、山の衰えはすなわち国の衰えなり」  
このような政策を陰で支えたのが「国の宝は山なり、然れども伐り尽くす時は用に立たず、尽きざる以前に備えを立つべし、山の衰えは即ち国の衰えなり」と名言を残している家老「渋江内膳政光」でした。政光は武術一筋の将士ではなく「渋江検法」という独自の検地技法をあみ出したり、殖産事業に経験深く藩財政にも明るい「地方巧者」でした。森林開発に関しても種々の対策を打ち出し、眠っていた秋田の天然資源の目をさましていきました。
豊富な天然秋田杉が目を覚ましていった


なかでも長木沢(大館市)は米代川上流随一の美林といわれ、ここの杉材を大量に切出し海路敦賀に輸送、大坂市場への大量移出が始まりました。豊臣秀吉から献上を命ぜられて以来、こうした森林資源の豊かさに目をつけられ、幕府の江戸城増築をはじめことあるごとに運上方を頼まれました。対幕府関係の円滑化に神経を使っていた佐竹義宣公は藩のとっていた冬季伐採、搬出の原則を無視して夏山での伐採、搬出を強行させました。また藩のもう一つの柱である鉱山が最盛期を迎えるにつれ、鉱山を中心とする山の木も切り尽くされ、乱伐による領内の山々は荒廃するばかりでした。家老「渋江内膳政光」が言った「・・・山の衰えは即、国の衰えなり」が現実となって佐竹義宣公の身にふりかかってきました。



他領への移出、鉱山の開発が進むにつれ「天然秋田杉」をはじめとする森林の荒廃ぶりが激しさを増していましたが、藩財政を賄う為に切り倒されていく木々をむなしい思いで見つめるしかありませんでした。藩政が義宣から二代目義隆に変わってもこの傾向は続きました。これまでは日本海回りだけだった海運も太平洋航路が開け直接江戸へ運ばれるようになり空前の活況をみせるようになりました。またこの景況に拍車をかけたのが江戸の大火です。この火事で江戸全滅とまでうわさされましたが、復興のため膨大な「天然秋田杉」が江戸へと送り込まれました。こうした世情の動きにつれ杉材の移出は激しさをましました。
毎日新聞社 秋田支局編 「秋田杉物語」より
             
藩政時代1